旧ソ連の対日侵攻の巨大陣地跡確認 モンゴル東部 ノモンハン事件の激戦地も






朝日新聞社さんが、2018-08-15 11:32:14に公開した『旧ソ連の対日侵攻の巨大陣地跡確認 モンゴル東部 ノモンハン事件の激戦地も』は、動画ニュースnetがYoutubeから厳選して紹介している動画ニュースです。

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☆タイトル:旧ソ連の対日侵攻の巨大陣地跡確認 モンゴル東部 ノモンハン事件の激戦地も

☆投稿者:朝日新聞社

☆公開日:2018-08-15 11:32:14

☆視聴時間:1:21

☆視聴回数:135



第2次大戦末期、旧ソ連が対日侵攻の拠点とした巨大陣地跡の全容が日蒙共同調査団の現地調査で明らかになった。「ノモンハン事件」から75年を機に、2014年6月にモンゴルを訪れた調査団が計3カ所の陣地跡を確認した。旧ソ連が早い段階から大規模な対日侵攻を準備していた実態が裏付けられた。
 未舗装の道を外れ、草の生い茂る荒れ地を約4キロも走ったころ、突然、車の前方約50メートルに横一線に走る黒い筋が現れた。わずかな起伏に隠れるように掘られたマタット陣地跡を囲む対戦車壕だった。
 北緯47度29分59・8秒、東経115度39分6・1秒。現地を訪れた「ノモンハン戦跡日蒙共同調査団」が衛星写真の解析で事前に推定していた位置と、誤差はわずか3メートルだった。
 調査団は5年前にモンゴル東部のタムスクで陣地跡を初めて確認した後、今年6月にはマタットとサンベース(現・チョイバルサン)でも陣地跡を確認した。3カ所ともソ連軍の基地があった地名としては伝わっていたが、正確な位置や施設の状況は不明だった。
 タムスクとマタットは東西13キロ、南北10キロ。サンベースは東西26キロ、南北29キロ。いずれも東京・山手線の内側の面積を上回る大規模な陣地で、土地の起伏を利用し、外側からは気づかれにくい場所を選んでいた。
 陣地内には、線路跡や幹部用兵舎跡、砲台、トーチカ、射撃練習場、墓地、天幕倉庫跡、連絡壕などが確認された。1940年に採用されたソ連軍の鉄兜や、米国が旧ソ連に供与した43年型ジープの残骸、40年代前半の刻印がある薬莢も陣地内で見つかった。
 マタット陣地跡の中で暮らす唯一の住人、遊牧民のゴンボスレン・ボルトさんは「陣地は祖父の代にソ連軍が造った。物資や兵を集める場所で、ソ連軍は日本と戦うため、ここから出撃していったと聞いた」と証言した。
 調査団は、これらの遺物や証言などから、陣地がノモンハン事件後の40年代に入ってから建設され、旧ソ連が45年8月8日に日本に宣戦布告した際、旧満州国を西側から攻略したザバイカル方面軍の主力が駐留していたと断定した。調査団長の岡崎久弥さんは「旧ソ連が対日参戦する何年も前からひそかに大規模な侵攻を準備していた実態が明らかになった」と話す。
 調査団は今回、ノモンハン事件の現場でも新たに陣地跡などを発見した。
 ソ連軍は1939年8月20日、南北約70キロに及ぶ全戦線で総攻撃を開始。北端のフイ高地では、井置栄一中佐率いる第23師団捜索隊759人が5日間にわたって包囲され、3日3晩水も食料も援軍もなく、脱出できたのは269人だけだった。井置中佐は「独断撤退」と非難され、停戦後、自決を強要された。
 フイ高地の調査では、関東軍が網の目状に掘った塹壕跡を、ソ連軍が砲撃に使った楕円形の壕跡がびっしり取り巻いていたことが確認された。一帯には砲弾の破片が散乱し、壕の底にはサイダー瓶が転がっていた。ソ連軍の戦車に日本兵が手製の火炎瓶で立ち向かわされた悲惨な戦闘の実態が浮かび上がった。
 調査に同行した地元「戦勝博物館」の元館長イシ・ニレバータルさんによると、6年前、近くに埋まっていたソ連軍戦車の残骸の中から、日本兵とソ連兵の遺骨が見つかったという。ニレバータルさんは「日本兵が最後の戦いを挑んだのでしょう」と話した。
 フイ高地から南南東へ約10キロ。最後の激戦地とされる「バルシャガル高地」の北端では、ソ連軍が高台を守る形で四重に掘った塹壕の跡があった。敵を縦方向へ引き込み撃破する「縦深陣地」と呼ばれる陣地の跡だった。研究者や慰霊団の案内を20年以上続けているニレバータルさんにも、未知の遺構だった。




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